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活動報告

東京商工会議所女性会 社会貢献部主催『勉強会』

平成22年4月27日(火)
PM:18:00~19:00
東商ビル5階 502会議室

テーマ:「かけがえのない子供達と50年」
講師 :社会福祉法人青少年福祉センター 専務理事 長谷場 夏雄 氏

 現代は子供をバケツに入れて上からビニールをかぶせたり、子殺し、親殺しのような事が起きています。何故このようなことが社会で起きるのか?このようなことがどうして出来るのか、悲劇の元である子供の問題、家庭のあり方といった我々の社会が抱えている色々な問題を如何に捉えたらよいか、ご一緒に考えていただけたらいいと思います。

 私は昭和22年に16歳で満州の鞍山市から引き上げて参りました。終戦直前に、英語教諭だった父を結核で、その2年前に母を心臓病で亡くし、当時小学校1年生位の弟の手を引いて何とか引き上げて来たのです。

 まず、弟とともに東京の親戚宅に身を寄せました。が、やはり窮屈で自分で働こうと思い、新聞で見たイタリア人修道士が作った戦災孤児の施設で弟を預かってもらいながら、私もそこから学校に行き、17歳で助教諭免状をとって指導員として働きました。学校を終えたあとは、サレジオ会(カソリックの修道会、神学校他全世界に学校を持つ。)で英語の先生の資格も取ったので、大阪の誠光学園という進学校に勤めました。

 そこで働いていたある日、サレジオ学園の戦災孤児達から「卒業すると自分たちは16歳で宿無しになってしまう」と言われました。確かに当時の就職は住み込みで、仕事を失うと何もかも失う事になり、実家や家がないと就職も出来ないのです。

 「学園の寄宿舎を出た俺達は宿無しだ、どこか一晩でも泊まれる所を作ってよ。」と言われて、東京都豊島区椎名町の駅近くに四畳半のアパートを借り、ある者は服を作り、ある者は靴をたたき、来たばかりの子供には日用品の販売をさせました。私は夜、セントパトリック教会の一室で英語の塾をやりました。子供の数は増え、階の上下に6畳を2間借りて引っ越しました。このようにして皆で働いて自活しながら昭和33年8月15日に始まったセンターは、今年で51年目になります。そのとき私は29歳でした。

 当時の街には、寝る所の無い子供達、いわゆる戦災孤児があふれていました。当時山手線は10円だったので、彼らは10円もって、始発から終電まで山手線に乗って寝ているような生活をしていたのです。ですから次々と子供達が頼ってきて、1階で洋服作りなどをしながら 、2階の6畳間には十何人も寝ていて、次々にやってくる子供に就職を探したり、食べさせたりしていました。

 私達のぼろアパートの大家は電話機の置いてあるタバコ屋をやっていましたが、ある日、そこに電話を借りに来た御婦人が、「あなた達そこで何をしているの?」と尋ねてきました。私は子供が土間で靴の修理をしたり、洋服をつくっているわけを説明しました。その女性は 家に帰り御父さんにその話をしたのです。なんとそのご婦人は麻生和子さんで、戦後ながらく首相を務めた吉田茂氏の娘さんでした。

 父である吉田茂氏に 「私は今、日本の国の事で忙しいから貴女が手伝ってあげなさい 。」と言われた麻生和子さんは、その日からお亡くなりになるまで一生懸命尽力してくださり、最後には理事長まで引き受けて下さいました。

 先ずご自分の主催していた会での援助をはじめ、次には渋谷パンテオンで『ニューヨークの王様』という映画を上映したり。今の天皇陛下(当時は皇太子殿下)、皇太子妃、アメリカの大使からバチカンにまでお声かけして資金集めをしてくださって、なんと下落合に43.75坪の土地を買ってくださいました。建物はやはり彼女の関係で、鹿島建設がただで建ててくれました。

 東京にこういう施設が出来たことで、困った子供達が沢山まいりました。私達はまずは来た子供におなか一杯ご飯を食べさせましたが、その食費を得るために、来る子供も必死で働いてくれました。皆でバケツ一つあれば出来るペンキ塗りをし、病院の壁や、石神井公園のボートを全てひっくり返して塗りなおしたりして、とにかく働けるだけ働きました。

 今でこそ、足りないとはいえ年間1億5千万円ほど補助金がもらえていますが、国からは私達がセンターを始めてから16年後に、やっと施設を出た子供の相談事業と言う事で年間200万円の予算が割り振られました。その頃施設では40人から50人の子供を抱えており、施設の費用は年間8000万円から9000万円 かかっていました。
ですから、ともかく皆の死に物狂いの労働で、食いぶちをまかなっていたのが実情です。

 子供がちゃんと社会に定着するには技術や資格が必要です。女の子は看護師にしましたが、男の子が当時一番やりたかったのは自動車修理屋でした。昭和30年代、やっと日産ブルーバードが出初めの頃でした。しかし、新宿の小さな場所で自動車修理は出来ないと思っていたところ、上智大学の神父が「足立区に西ドイツと経団連から提供された資金で1000坪の職業訓練所を作ったが、貴方のところで使わないか。」「3年間、貧しい子供達のためにやってくれたら差し上げる。」と言ってくださったので、そこに移り、30数年やりました。整備士、板金工、塗装工、大工など385人の卒業生を出しましたが、数年前に休校しました。なぜかというと、職業選択が多岐にわたる時代になった事と、今は施設の子でも皆、高校へ行けるようになったからです(90%以上は高校にいける)。当時の施設の子は高校にいけないから、3年の課程で本科2年、研究課1年という形をとっていましたが、最後は科学技術学園高校の分校のようになり、高校の卒業証書と自動車の整備士などの資格を持って就職するようになりました。皆、今でも元気でやっています。

 先日、建築科でツーバイフォー工法を学んだ子が手紙をくれました。「僕が足立の訓練校に入ったのは16歳の時でした。21歳で棟梁になり、年収1200万円になりました。現在は三井建設で仕事をしています。住まいは千葉、子供は22才、15才、14才の3人で、長男にはツ-バイフォーを教えています。」と書いてありました。あらためて仕事を教える事は大切だと思いました。

 又、当時ボランティアで来ていた聖心女子学院のシスター岩下に「女の子はどうしているの?」と聞かれ、女子用の4人くらい泊まれる小さな寮の話しをしました。シスター岩下のお父さまは、岩下清秋という大林組の社史にも出てくる方で、その取り計らいにより、今の足立区竹の塚に土地を300坪用意していただきました。今から38年前のことですが、そこから300名の子供が世間に出ています。

 当時、役員のある方が、涙を流しながら「長谷場さん、建物を建てるのもいいけれど、電気代もガス代もいるのよ。」と心配して下さいました。当初の我々が国からお金をもらえないでも一生懸命やれたという事は、社会の皆様方のお力がずっと我々を助けてくれていたからだと思うのです。

 どのような子供がセンターに来るかといえば、昔は親の貧困、片親の死亡、捨て子などでした。しかし、今は虐待、養育放棄、継父・実父の暴力や性的虐待、実父実母のネグレクト等により、また、そこから非行に走った子供たちなどです。その内訳は、知的障がいの子供が1/3、虐待により精神的な傷を負った子供が1/3、ネグレクトで家出して非行化した者が1/3となっています。

 現在、100名の子供たちが8つの家に分かれて生活していますが、その子供たちをどう育てるかです。石原慎太郎さんの本ではスパルタ式教育を推奨し、羽仁進さんの本では優しい育て方をと書いてあります。色々育て方はあると思いますが、両方に共通している事は目標がはっきりしていることです。

 我々も「良い子にしたい。」「良い子に育てたい。」という目標ははっきり定めています。
施設の子供達は家族もいないで社会に放り出されます 。だから、社会というのは会社だよと教えています。人生の大半を会社の中でいきていかなくてはいけないのですから、良い子ならかわいがられていろいろ教えてもらえ、助けてもらえます。何はともあれ、心根の優しい子で人の優しさがわかる子が第一です。一番大切なのは人間関係を作る能力です。親のほったらかしでニートになるのは、人間関係調整能力の欠如が原因です。

 僕は子供達に社会に出たら以下の二つだけは守りなさいといっています。
1、やっていけないことは絶対にやるな。
2、やらなきゃいけないことは、たとえ眠くても必ずやれ。
ということです。

 これを職員・子供達同士を通じ、会社・近隣へ向けて社会人としてやっていけるように教育しています。

 そして、収入確保の能力を身につけさせること、毎日の掃除洗濯( たいていの子はできるようになるが、どうしても直らない子もいる。)、社会に出てから社会活動に参加できる能力も必要です。

 援助者からいただいた切符があれば子供達を映画に連れて行ったりして、社会の中でつらいのは自分だけではない、広い社会にはいろいろな人がいるということを教えたり、皆が夢を持って社会の中でやっていけるようにしたいのです。お金が沢山もらえるから幸せかというと決してそうではありません。自分なりにちゃんと暮らして、そのなかに自分の好きなもの、楽しいもの、好きな友達を作っていく能力をつけてあげたいですね。

 終戦直後は戦災孤児が3万5千人いましたが、今も世の施設には3万6千人、同じ数だけの子供がいます。少子化で裕福な時代に不思議でしょう?こんなに裕福な時代でも、それだけ家庭に問題があるという事です。

 子供はだいたい時給800円で1日7時間、月に21か22日働かせてもらえます。ですので、ちゃんと休まず働けば月に12~13万の収入になります。我々がやっている自立援助ホームは、子供がちゃんと働いたらまず寮費(食費)を自分で3万円払ってもらいます。あとはお風呂から、ディズニーランドまで何に使っても自由です。服などの生活必需品も自分自身で買います。自分で働いて自分で払うのです。

 給料をもらうとまず職員が預かって帳簿に付けて、そこから寮費や国民健康保険などを払って、自分が自由に使えるのは毎月4万円くらいとし、その中でまず予算を立てさせます。初めは反抗します。「俺が稼いできた金をどうしてだ。」と最初は怒りますが、外で衝動買いすることはなくなります。それでどの位貯まるかといえば1年で60~70万円、多い子は200万円以上貯めています。貯金は社会に出てからのその子の余裕となります。また、そのような生活をすることで施設を出てから自立した生活をすることができるようになります。

 子供達を自立できるように育てるのは、結局はお互いの間に信頼関係を作ることだと思っています。他人だから出来るのかもしれませんが、穏やかに子供の目線まで降りて見るようにしています。泥棒にも三分の理といいますが、子供には六分位の理があります。子供の目線に立って一緒に考え、とにかく子供の意見を一生懸命聞いてあげる事です。子供が話しをしたい限り、聞いてやればよいのです。

 ここに、ある子供からの手紙を紹介します。他の人をそそのかしてまで色々やったりする、非行のデパートのような子供でした。その子は5歳の時に、精神を病んだ母が父を刺殺したのを見てしまったのでした。それから施設に入れられたものの、我の強い子でさんざん他の子とけんかしていました。

「ディア パパ
元気にしていますか?
他人に迷惑をかけてはいけないと、よく大人は言うけれど、あまりそのことの意味を感じた事はありませんでした。自分が何をしても別に誰にも関係ないとおもっていました。
大人が怒るのは自分の面子の為だと思っていましたから。が、自分がした事で悲しんでくれる人がいる事を知りました。昔(学園にいたころ)警察に捕まった時初めて「どうしよう、パパが悲しむ」と言う思いが横切りました。昔は「怒られる」までしか考えられなかった。その時から何をするにも考えるようになって、それが私にとって歯止めになった。だから落ちる所まで落ちずにすんだ。・・・」
…というものでした。

 子供はほめて育てろといいますね。「上手ねぇ」、「いいこねぇ」と、子供の時代にほめられて成長するものです。

 心理学者のエリクソンが言う発達理論では、基本的な信頼関係、アイデンティティーなど色々ありますが、江戸時代のことわざには、「かわいくば、3つ叱って4つ褒め、5つ教えて、良き人となせ。」があります。私たちだっておだてられ、ほめられると嬉しいもの、叱ってのみ直すべきではないと思います。いいところを沢山ほめて悪い所をしかる。全体をほめて悪い所を怒る。そして毎日「おはようございます」「行ってらっしゃい」と必ずその子の眼を見て挨拶をする。その子の存在価値を認めてやるのが大事です。

 ジョン・ボルビーという養護の神様が「養護とは子供に愛を芽生えさせる、その芽生えた愛を成長させていく事である。」と言っています。心は育てられますから。

 しかし、今の子育ては、家族、地域社会が無くなってしまい、学校では権利ばかりを主張する自由しか教えない。親も子供も孤立し、家庭崩壊も起こりますが、本来子供はちゃんとした所で育つ権利があるのです。

 私は、カナダに孤児たちとともに移住し、トロントでレストランをやっていたこともあるのですが、カナダでは映画を観るための年齢制限でも、きちんとIDを見せる必要がありました。これが子供を守る社会です。なぁなぁでいいわけではありません。見習うところは多かったです。日本も子供に関する制限をあいまいにせず、社会から率先してもれなく守るべきです。

 それでも私は海外生活で、日本にはいいところが一杯あると感じてきました。法を人の心からの行いにせんと、文化そのものの中に「卑怯」な振る舞いを戒めたり、「勤勉」に仕事をする事を奨励する気風等、良い考え方がたくさんあるのです。

どうしてこのセンターを続けてきたか?と最近もよく聞かれますが……人間って、結局は子供を育ててやがて死ぬ。だったら自分のあとの子供たちは、ちょっとでも今までよりよくなってほしい。いい子を育てて残していけば少しずつ世の中は良くなっていくのではと思います。世の中いろんな仕事があるけど、ぼくは子供を育てるのが面白かった。……俺たちダメな世代だったけど、できるだけやったから、あとはよろしく頼むって、すっと死にたいものです。いつの時代も社会福祉で大切なのは青少年問題です。一人でも子供をいい子に育て、日本の社会を立派にしていきたいですね。