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活動報告

基調講演「東商130周年を記念しての渋沢栄一翁」
講師 作家 茶屋二郎(山科 誠)氏
<日本BS放送株式会社 代表取締役会長>

茶屋というペンネームは家業のおもちゃ屋が由来、との自己紹介をして下さった後、企業経営者の視点から、渋沢栄一の成功後の事よりも、10代から20代に彼がどのような人間性や価値観をかに成功の要因があるとみられる“若き日の渋沢栄一”について、基調講演が始まりました。

渋沢栄一は、1840年 埼玉県深谷市の裕福な豪農に生まれ、幕末動乱の中 、多感な思春期を過ごし、24歳の時、徳川家の政策に矛盾を感じ倒幕を志して、薩長の若者が集まっていた京都へ、従兄弟の喜作と共に出向きます。京都では一橋家に仕官しながら、薩長へ変わる時期を画していましたが、意に反して徳川慶喜の弟とパリに行くよう命が下ります。パリ滞在中に大政奉還があり、明治政府がスタートすることになります。帰国した渋沢栄一は、明治政府は、すでに薩長が中心で、倒幕された徳川家に仕えるわが身には、出る幕はなく国に帰ろうと、静岡藩に挨拶に行ったところ、彼の能力をかっていた徳川慶喜から思いがけず、大蔵省長官を命ぜられます。彼に、どのような能力があったのでしょうか。彼は武士でありながら、経済観念に長けていたのです。そして、その能力が彼をさらに押し上げることになります。

徳川幕府から明治政府に変わったことで、世の中には膨大な仕事があったのです 。そこで彼が成した代表的な事業は、納税をお金で、しかも税率を統一するというシステムでした。他には、戸籍の整備、郵便・鉄道の開設、複式簿記の導入、新貨幣と新紙幣の発行などがあります。こうして、渋沢栄一は数多くの仕事をこなしながら、同時に人脈も広げていったのです。

このようなことから渋沢栄一は、人や体制に依存しない自立精神にあふれ、卓越した行動力、そして強い家族・兄弟愛、厚い忠義心、また商才に長けた人であったと言えます。その人生観は、武士道は実業道なりという言葉に集約されるように、商売も武士道も同じ、つまり算盤と倫理観や道徳の両方を持たねばならないというもので、また「能く集め能く散ぜよ。」とお金の使い方についても戒めています。さらには、富をなす方法として、第一に社会に役立つ事を考える。そして、「人を虐げる、害を与える、欺く、偽らないこと。」「それぞれの職でベストを尽くすこと。」「道徳に基づいて行動しなければ、お金はつくれない」とも述べています。言い換えれば、お金よりも仁義、人徳を優先しなければならないということです。

彼はなぜ商工会議所を創ったのでしょうか。幕末の時、日本は開国を迫る外国から世情に疎い国とみられ、関税など様々な分野で不平等な扱いを受けていました。それを何とかしたいと伊藤博文が、渋沢栄一に依頼し、世界に追いつけ、追い越せの意図から日本の世論を代表するため設立されました。

渋沢栄一は、その後も数々の要職を兼ねた後、77歳で奉仕活動以外のすべての職を辞して、「論語と算盤」を始め、「徳川慶喜公伝」を上梓します。そして、昭和6年 92歳で永眠しますが、葬儀が行われた青山斎場には、1,400台の自動車が弔問の列をなしたそうです。

お話を伺ってみますと、吉川会長が話されたように、渋沢栄一が経験した幕末から明治の時と私たちが今置かれている変化の時は、時代は違っても転換期では共通していると思われます。先人渋沢栄一の行き方を学ぶことで、これからを生きる私たち一人ひとりがどのように変わればよいのかという、気づきをいただいた貴重な講演となりました 。

※本文では、渋沢栄一氏の敬称を略させていただいております。

(記:近藤洋子)

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